- 2006年10月24日
- 法律よ、急げ!
代理出産のニュースが続きました。
特に、母親が娘の代わりに出産する、というのは、非常にインパクトがあったように思います。
私の正直な第一印象は「えっ!?」という驚きと、ちょっとした違和感でしたが、テレビの街角インタビューなどを見ると、「娘のためなら、やります。」と答える50台くらいの母親世代の方々が多かったのを見て、もっと驚きました。
世の中、そんなに進んでいたんですね。
法律というのは、法律が作られる時点での「現実社会」に基づいて作られるもの。
民法が制定されたとき、子供を出産したその本人が母親である、というのが現実で、それ以外のことはありえなかったのです。
ところが、今は、他人の受精卵を使って出産することができてしまう。そういう現実が出現してしまっているのです。
父親と子供の関係を確定するのにDNA鑑定が使われていることからみても、民法が基本としている親子関係は「血筋」なのは明らか。
母親の場合は、わざわざそんな鑑定をしなくても、母親がお腹を痛めて子供を生んだ、という事実が、「血筋」の何よりの証明だったわけです。そう考えると、代理出産ができてしまう、ということは、もはや、母親がお腹を痛めて生んだ、という事実が、もはや「母の血筋を引いた子」である、ということの証明にはならず、民法が基本としていた「現実社会」が変化してしまったことを意味しています。
倫理的に代理出産は許されない、という考え方は、他人に妊娠・出産の負担をさせることが相当ではない、産みの母と遺伝上の母との間でのトラブル、などの理由があげられているようです。
しかし、倫理感というものも時代とともに変わるものだし、国によっても異なるもの。
たとえば、出産の負担をする本人が良いといえば、良いではないか、と反論する人もいるでしょう。代理出産がすでにある現実だとすれば、そもそも、そのような現実を、日本の法律が受け入れるのか、あるいは禁止するのか。
まず、そのような「現実社会のあり方」が議論される必要があるのでしょうが、すでに現実はどんどん先に進んでしまっています。
さらに、代理出産を受け入れっとしても、遺伝子上の親子を「親子」と定義づけていたように思われる現在の民法で、「出産の事実で母子と認定する。」という法のあり方は、すでに時代遅れになってしまっているのではないか?
常に議論と、法律は、現実の後を追いかけているのですが、この問題は、民法が相当に頑張って急がないと、とても現実に追いつけなさそうです。