日々の歩み

2006年3月25日
有罪も無罪も勇気が必要

 裁判員制度導入が近づいてきて、裁判所は、体験裁判員の市民の方々による模擬裁判などもやったりしているようです。

 今日TVニュースで紹介していた模擬裁判の争点は、「殺意」の認定。

 ナイフで被害者を刺した被告人に殺意があったかどうか、被告人は、被害者ともみあっているうちに刺してしまった、と主張しているので、その点の認定が必要です。

 裁判員体験者の方々は、実際に現場を再現してみたり、熱心に取り組んでいましたが、最終的に、結論を出すことはできなかったようです。

 さて、私たちが司法研修所で最初の方に受けた刑事裁判の講義で、やはり同じような事例の判決を書く課題が出されました。

 「殺意」というと、あくまでも主観的なもの。ただそういう主観的なことも、客観的な事情(ナイフの刃渡りとか、どこを刺したかとか・・・・)で認定をしていく、ということすら、「そうなんだ!」という新鮮な驚きをもって講義を受け、実際に判決に取り組むのです。

 1クラス60人だった私のクラスで、無罪判決を書いた人は数名いましたが、裁判官によると「これは、【真っ黒】の事案。」ときっぱり・・・。

 そんな事案であっても、ひととおりの勉強はしている修習生の中でも無罪にしたくなる人がいるくらいですから、法曹でない市民の方だと、有罪判決を書くのは、もっと躊躇してしまうのではないかな? と思います。

 今日見たテレビでも、講評をされた現役裁判官の方が、「どちらかわからない、というのであれば、立証が出来ていない、ということで無罪にすればよいのです。」という趣旨のことをおっしゃっていました。

 「疑わしきは罰せず」「無罪推定の原則」というやつです。

 ただ、今日、結論が出せなかった裁判員の方々の心中を察するに、有罪にするのはとても勇気がいること。

 そして、もちろん「疑わしきは罰せず」というのは知っているけれど、それでも、無罪の結論を出してしまう、ということは、有罪の判決を出すのと同じくらいに勇気がいることだったのではないか、そんなふうに思ってしまうのです。

 自分が、他人の人生の最終決断者になるということ自体の重み。裁判員制度で1番克服しなければならないのが、その重みなのではないかな?

カテゴリー:ブログ