日々の歩み

2009年6月24日
DNA鑑定

 またまた気づけば半年以上更新をさぼっておりました(毎回言い訳から始まってすみません!)
 最近の刑事裁判の話題は、なんといってもDNA鑑定の誤りで冤罪が発覚した菅家さんの事案でしょう。
 足利事件のあった1990年、まだ私が司法試験の受験も始めていない頃のことです。
 ふと気になって、当時、刑事訴訟法の勉強に使っていた教科書(「刑事訴訟法」有斐閣・田宮裕著)で、DNA鑑定について、どのくらい記述があったのか、引っ張り出してみました。
 この本が書かれたのは、1992年、足利事件のちょうど3年後なので、事件当時の認識に近いのではないでしょうか。
 DNA鑑定について、ほんの少しですが、次のように書かれていましたので、引用させていただきます。
 「近年の価額技術の進歩はめざましく、これを応用した採証学の発展に伴い、操作・裁判ともに科学的成果に依存する度合いを深めている。例えば、毛髪、体液、薬物、繊維、指紋、掌紋、皮膚紋、足跡等から犯人の同一性を判定するための精密な手法が進歩を遂げ一般化した。」
 そして、その後に、
「そればかりか最近では、科学の最先端ともいうべきDNA鑑定により、細胞内の染色体に含まれる遺伝子情報による個人識別法なども応用されるに至っている。」
 さらには
「これは、犯罪の巧妙化に対する必然的対応であるばかりか、『自白から物証へ』という方法論的転換の帰結でもあり、事実認定の制度を高めると同時に人権の保障にも資するという意義がある。」
 このように書かれていました。
 つまり、刑事訴訟法の本来の理念は、DNA鑑定などの最先端科学捜査による物証を重要視することによって、自白偏重、そしてそれに伴う人権侵害をなくしていくべきだ、ということだったのです。
 ところが、今回の事件では、不十分な精度の物証の偏重が、無理な自白強要を生む、という、刑事訴訟法の目指す方向と全く逆の結果を生んでしまった、ということになります。
 私は、DNA鑑定が必要になるような刑事事件を扱ったことはありませんので、DNA鑑定は、もっぱら民事の場で利用します。
 実際には認知事件での利用がほとんどですが、私も、やはりDNA鑑定の結果、というだけで盲信していた点があった、と反省しています。
 また、民事の裁判でも、DNA鑑定の結果にほぼ沿った結論が出されているのが実情です。
 気になって、今までにやったことのある鑑定結果を見直したのですが、どの結果も、非常に精度の高い(DNAの15の部位の鑑定により、77兆人に1人という精度が得られる)方法で行なわれていることがわかり、非常に安堵しました。
 ちなみに、警察庁でこの方法が導入されたのは、2006年10月から、だったそうなのですが、それ以前に扱った事件のDNA鑑定でも、きちんとその方法での鑑定が行なわれていました。
 私が弁護士になった当時、「DNA鑑定って、費用がかかりそう」と漠然と思っていたのですが、初めて利用したとき、数万円という金額でできることに、まず驚きました。
 こうして、得られた鑑定結果なのですが、父と子との親子関係が否定される可能性については、100%の精度で否定されます。
 一方、父と子の関係が認められる可能性については「99.99998%」という精度で結論が出されます。
 こうしてみると、刑事事件の物証でも「100%犯人である」というDNA結果が出ない以上、この「99.99998%」を、どう判断するか。有罪とできるのかどうか。
 これからは、裁判員も考えていかなくてはいけないのですね。