日々の歩み

2006年2月19日
写真は語る

 たくさんの写真が、裁判の証拠として出されることがある。

 わかりやすいものとしては、水漏れや火災などで被害を受けた 建物や動産の状況を写したもの、ケガをさせられた人がケガの状況を写したもの、など。

 少しひねって、暴力亭主がドアを蹴飛ばしたそのあと(その写真単体だけでは、何を良くわからなかったりすることも)の写真など。

 しかし、それだけにはとどまらない。

 たとえば、数人の男性が仲良くカラオケで盛り上がっている写真が証拠として出される。

 これは、その中の1人が、別の1人に脅されて証文を書かされた、と主張している事案。
 脅したと言われている側が、「こんなにみんなで仲良くカラオケ歌っている良い関係なのに、脅すなんてことはありえない!」という証明のために出されたもの。

 あるいは、同じくカラオケでの写真だけど、今度は女性がふざけて男性のほっぺたにキスをしている場面。 

 それは、女性がセクハラを受けた、と主張している裁判で、相手方(キスされている男性ではない)が、「この女性は、飲み会ではいつもこんなふうにふざけて男性にちょっかいを出すような女性なのだ。セクハラを受けた、なんて笑止である(?!)」という証明のために出されたもの。

 いろんな証拠として写真が出されるのだけれど、見れば見るほど、実際にどのくらいこれらの写真が証拠として力を持っているのか、わからなくなってくる。

 写真は、一目瞭然である場合もあるけれど、解釈によっていくつもの意味を持ってくることもある。

 写真で、端的に被写体そのものの「状態」を立証するのではなく、その写真に写し取られた場の「雰囲気」、あるいはそこから読みとることのできる「解釈の内容」を立証するのは、もはや、写真による立証の域を超えているのかもしれない。

 それでも、やはり写真に頼ってしまうのは、「百聞は一見に如かず」という言葉のとおり、視覚によるインパクトを求めてしまうからなのだろう。

 私自身、被写体そのものが損害を受けている状態を立証するときなど、できるだけボロく見える角度から撮って、「これはひどい!!」って見たほうが思ってくれるような、そんなインパクトのある写真を撮るように頑張ったりすることもあるくらいなんだから・・・。

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