日々の歩み

2006年4月14日
立法者も想定外

 病気の夫の精子を冷凍保存して、夫が亡くなった後に体外受精で出産をした女性が、子供の認知を認める裁判で、このたび、最高裁が審理を行うそうです。

 今回、審理が行われるのは、認知を認めた高松高裁の判断に対するもの。この裁判所では、大切なのは子供と父親の自然血縁が存在すること、そして、静止の冷凍保存に応じた父親には、当然、妻が人工授精で妊娠し出産することに同意しているはず、というもので、父親が亡くなっていることは、特に問題ではない、という判断のようです。

 一方、同じ事案について、東京高裁では、すでに亡くなった夫の精子を使う、という医療自体、社会的にまだ受け入れられるものとはいえない、という理由で、認知を認めていません。

 最高裁の審理が開かれる、ということは、認知を認めない方向へ行くのでは?という予想もされます。

 当事者の意思を合理的に解釈すれば、認知は認められて当然、とも思えるのですが、社会に対する影響という面で、慎重な判断がなされるのも仕方ないのでしょう。

 言ってみれば、これは、法律ができたときには「想定外」のことで、亡くなった父親の精子で妊娠した場合のことまで、条文にはできなかったのですね。

 「脳死」を認めるか、という、ことでも、やはり似たような問題があります。

 たとえば、日本の刑法では、人間の「死」について、三兆候説(呼吸停止、心臓停止、瞳孔拡散)をとっていて、脳死は「死」とは認められていません。

 実は、私が司法試験の刑法の口述試験のとき、「脳死」がテーマでした。

 試験官から「刑法上、どういう状態が『死』なのか。」と聞かれて、「はいっ! 呼吸停止、心臓停止、瞳孔拡散です!」と、元気良く暗記していたとおりに答えると、試験官からは、「何で『脳死』はだめなの?」という突込みが入りました。

 私は、ちょっとあせりながら、「まだ脳死を『死』と認める共通の社会認識もなく・・・」などと答えた記憶があります。

 それから、「あと、アメリカでしたか、脳死状態の女性が妊娠し、出産をした、という実例もありますので、やはり『脳死』は認められないのでは・・・?」とつけたしてみました。

 すると、試験官は、「ふーーん、死人から子供が生まれちゃいけないわけ?」と、さらに突っ込んできたのです。私は答えに詰まったまま無言で、試験官は「はい、結構ですよ。」と、試験は終わったのでした。

 こうして、法律ができた当時には想定外のことが、医療の進歩によってどんどん起こってくるのです。

 これは、まさに宗教的な領域!
 
 私自身は、「脳死」状態にある人間に対して、殺意をもった人が、さらに呼吸や心臓停止に至らしめるようなことをすれば、やはり「殺人」だと思ってしまうので、今でもやはり脳死を認めがたい。

 でも、認知については、やはり認めてほしい。

 そこに、世間の人々を納得させる「理論」や「理屈」が判決には必要になるのですね、宗教などに頼ることなしに。

 最高裁の判決、とても注目しています。